さて、日本で最も有名であり、人気のある戦国武将と言えば多くの方が織田信長の名前を挙げるでしょう。
織田信長を題材にした漫画やドラマ、映画も数多く存在しますよね。
戦国時代にはロマンがあり、現代の人間を惹きつける魅了がありますよね。
織田信長は最も魅力的な戦国武将の一人と言えるでしょう。
そんな織田信長も家臣である明智光秀の起こした「本能寺の変」により討たれてしまいます。
ですが本能寺の焼け跡から織田信長の遺体は見つかりませんでした。
誰かが遺体を運び出した?実は織田信長は死んでいなかった?などの説や都市伝説のような噂が残っています。
ここではその織田信長の遺体の謎や生存説について迫っていきます。
目次
織田信長生存説は豊臣秀吉の策略だった
織田信長は本能寺の変のころ、各武将にそれぞれの地方制圧のため出陣の命令を出していました。
そのため信長自身には100人程度の家来しか連れていなかったようです。
そして豊臣秀吉も毛利輝元の備中国を攻めていました。
その最中、秀吉のもとに本能寺で信長が明智光秀に討たれたとの知らせが届きます。
秀吉はすぐに各武将に“信長様は生きている。皆で光秀を討とう”という旨の手紙を送ります。
家臣達は本当に信長が生きているとすれば、光秀への協力は裏切り行為となり、罰を受けると恐れ大半が秀吉に従います。
そして、光秀にとっては最悪なことに信長の遺体が見つかりません。
当時討ち取った武将の遺体を見つけることは最重要事項でした。
討ち取った武将の首を晒すことで、自らの正当性や力を誇示することができたからです。
もし光秀が信長の遺体を見つけていたら、光秀に従う武将も現れ歴史は変わっていたかもしれません。
信長自身もさんざん討ち取った武将の首を晒してきたので、遺体を見つけられることが何を意味するかを充分に理解していたでしょうから、自らの遺体を見つからないよう処理したと考えられます。
もしかしたら腹心の家臣でった秀吉には信長が襲撃を受けた際には自らの遺体を見つからない様に工夫を施す、遺体は見つからないということを知っていたのかもしれません。
そのため、迷わず各武将に信長生存の手紙を送れたとも考えられます。
この豊臣秀吉の信長生存の嘘と遺体が見つからなかったという事実が相まって「信長生存説」という都市伝説に近い説が生まれたようです。
しかし残念ながら織田信長は「本能寺の変」で命を落としたという事実には間違いはないようですね。
阿弥陀寺の清玉上人が持ち出した
日本に織田信長のお墓とされているものはいくつも存在するのですが、信長の遺体や遺灰が埋められている証拠はどこにもありません。
その中でも信長の遺体を持ち出し埋葬したという逸話が残り、辻褄もあっているというお寺が2つあります。
その一つが京都の阿弥陀寺です。
阿弥陀寺の清玉上人は以前より信長と親交があり、本能寺の騒ぎに気づき、駆け付けたところ遺体を託され持ち出したというのです。
境内には実際に「織田信長信忠討死衆墓所」があります。
しかし果たして明智軍およそ13,000人が取り囲んでいたという本能寺から気づかれることなく遺体を持ち運び出せるでしょうか。
無理があるように思いますよね。
実際、本能寺の焼き後の遺体をまとめて埋葬したのは阿弥陀寺なので、後付けで信長のエピソードを付け加えたとも考えられます。
辻褄は合っていますがこの逸話が可能性の高いものとは考えにくいですね。
原宗安が持ち出し西山本門寺に埋葬された
もう一つの信長の遺体を埋葬したという逸話を持つお寺が現在の静岡県にあたる駿河国の日蓮宗・西山本門寺です。
当時の西山本門寺の住職の父が原宗安という武士で、本能寺の変の前夜に囲碁の対局を行っていた日蓮宗僧侶の日海上人に信長の遺体を託されたというのです。
原宗安は本能寺から遺体を持ち出し、駿河の西山本門寺に埋葬したと言われています。
現在その埋葬したと言われる場所には柊が植えられており、静岡県の天然記念物に指定されています。
この説も阿弥陀寺の説と同様に、遺体を見つける必要のあった13,000人の明智軍の目を盗んで持ち出したという点で可能性は低いと考えられます。
本能寺に放たれた火によって骨も灰になるほど燃やされてしまった
本能寺の変につてはイエズス会宣教師のルイス・フロイスも記録を残しています。
その記録によれば、「信長は切腹後生きながら焼死し、骨1つ残さず焼けてしまった」のだそうです。
骨一つ残さず焼けるというのは化学的にも不可能ですし、ルイス・フロイスの記録は人から伝え聞いたという点からも信憑性に欠けます。
また、本能寺にあった火薬に火が着き爆発をして遺体がバラバラに吹っ飛んだという説もあるようですが、本能寺に変に爆発があったという記録は残されていません。
信長の遺体はどこへ
それでは信長の遺体はどこへ消えてしまったのでしょう。
一つの案として考えられるのは「消えた・見つからなかった」ではなく「どれが信長の遺体か判断できなかった」ということではないでしょうか。
13,000人が取り囲む中、遺体を持ち出すことは不可能、もちろん生きたまま逃げることも不可能、当たり前ですが煙のように消すことも不可能です。
となると、遺体は本能寺にあったと考えるのが自然ですよね。
そこで信長の遺体を見つけられなかったということ、信長は遺体を見つけれたくなかったということから、信長は遺体が誰のものか判断できないように、意図して他の遺体に紛れて死んだと考えることもできます。
本能寺は燃えてしまった訳ですから、遺体は燃えています。
焼死体の判別は現代でもDNA鑑定を用いて行われるのですから見た目で判断できないのは当然なので、もしかしたら信長の意図などなかったのかもしれません。
これらのことから信長の遺体は消えたのではなく、どれが信長の遺体か判断できなかっただけという可能性はかなり高いのではないでしょうか。
まとめ
戦国時代を始め、歴史には多くの謎があり、その謎には人々を引き付ける魅力があります。
しかし、その謎の答えは単純な答えしかないのかもしれません。
もしかした都市伝説のようなドラマティックな事実があるのかもしれません。
事実がわかることはないのかもしれませんが、妄想してみたり、現実的な可能性を考えてみることは本当に面白いですよね。
最後まで読んでいただきありがとうございます。